
分業と専門化が高度に進行した社会では、知識と判断の非対称性が制度的な前提として定着しており、発注者・受託者・中間者の三者関係がほぼ自動的に立ち上がります。こうした構造は、一見すると合理的な役割分担として機能しているように見えますが、その実態は「理解を外部化することで成立する体制」にすぎません。発注者が「わからないことは任せればよい」と考え、専門家がその「理解不能性」を自らの専門性の根拠として保持する限り、全体は知の断片化を前提として動き続けます。
この構造の中で最も深刻なのは、「丸投げの制度化」であると考えます。分業が進むほど責任の所在は曖昧になり、各人は自らの担当範囲を越えて考えようとしなくなります。その結果、誰も全体を見なくなり、組織や制度はゆっくりと崩壊へと傾きます。初期の事業では現場が全体像を見失い、成熟した体制では経営が現場から切断されます。どちらの段階でも、欠けているのは「全体を見渡す主体」です。
中間者は、その断絶の痛みを一時的に吸収する役割を担います。しかし、それは根本的な修復ではありません。むしろ中間者の存在は、依存と責任分散の構造を安定させ、理解を自ら引き受ける力を鈍らせます。発注者が現場を知らずに翻訳を求め続ける限り、非対称性は減るどころか固定化していきます。翻訳の必要性そのものを減らすには、発注者自身が現場に入り、失敗と修正を通じて他者の知識を自分の感覚へと取り込むほかありません。設計や試作の段階に参加し、手を動かしながら理解を更新していくとき、分業は単なる役割分担から、学習的な循環へと変わります。
もちろん、こうした姿勢は現実的には困難であり、理想論として退けられることも多いでしょう。デザイナーやエンジニアの側から見れば、「そんなに単純ではない」と言いたくなるのは当然です。その指摘の正しさを十分に認めたうえで、それでもなお現場に踏み込まざるを得ないのだと感じています。理解を外部に委ねた体制は時間の経過とともに硬直し、いずれ自壊します。したがって、ここで語っているのは「望ましい状態」ではなく、むしろ「崩壊を避けるために残された唯一の道」なのです。
専門性は本来、他者を排除するための領域防衛ではなく、他者の経験を自らの中に取り込むための開かれた実践であるはずです。しかし現実の分業体制は、専門性を閉鎖化の手段として用い、発注者は「知らなくてよい」ことに安堵し、専門家は「知られないこと」に価値を置くようになっています。その共犯関係が組織の思考を麻痺させ、制度を硬直化させているのです。
だからこそ、中間者を信頼して委ねるのではなく、中間者を必要としない構えを取り戻さなければなりません。発注者は当事者意識をもって学び、現場に関与します。専門家は自らの専門知を他者の経験へと接続し、制度設計者は理念を先に定めるのではなく、人間の行動や現場の文脈から制度を逆算していきます。分業を前提としながらも、発注・設計・実務が互いに理解を往復させる構造をつくることが求められます。
経営から現場までを自らの目で見ること——それは効率的でも理想的でもありません。むしろ、他に選択肢がないからこそ引き受けるべき現実です。理解を外部に預けることの安易さに依存し続ける限り、組織も制度もいずれ崩れます。甘くもなく、救いもありません。それでもなお、自ら理解を引き受ける以外に、持続的な実践はあり得ないのです。