逡巡録

主に転写録。数秒の躊躇いの中に機械は世界を射影する。

いわゆるエッセイ、あるいは読者の専門的知識を前提としない一般向け書籍に関する基礎づけの問題について

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要するにモンテーニュが古人の句を引用するのは、第一に自分の意見所論を支持強調し、或いはこれに箔をつけ勿体をつけるため、第二に、これは自分だけの考えではなくすでに古人も言っていることだと、自分の責任を回避するため、いわば避雷針ないしカムフラージュの役目をさせるため、第三には危険な或いはエロチックな、いずれにしても余りはっきり言っては差しさわりのある事柄を婉曲に代弁させるため、第四にはユマニストとしての古人尊重或いは尚古趣味から、であった。だから引用の中に案外重大なその章の眼目ないし結論がかくれていることもあれば、単なる本文の反覆にすぎないこともある。モンテーニュのフランス文と渾然一つになっているのもあれば、とってつけたようにつぎ木されたものもある。或いはモンテーニュの文章の自然の流れを阻害し徒らに文章を混乱させている所もあるし、それがかえってカムフラージュになっている場合もある。自然にそういう結果になったと思われる所もあれば、わざとやってるのかなと思われる場合もある。

(ミシェル・エーケム・ド・モンテーニュ(関根秀雄訳)『随想録』(第2巻、2019年7月16日登録、原著1580年)第10章関根秀雄注釈より。)

明治における西洋文法学が我が国の母語を国語に編成し直してから久しく、さらに近年では情報技術社会を背景に教育上又は受験上の要請から国語文法上の論理的読解を強調する傾向が顕著になっている*1。この潮流において、エッセイの位置付けは依然として曖昧なままであり、用語の意味内容としては随筆から小論文まで広範囲に含みうるが*2、少なくともエッセイに学術論文や実用文書を含まないことは明白である。「エッセイ」の語は、フランス語の「試金 essai」の語に由来し、その語源はラテン語の「衡量 exagium」であるという。ここで「試される」のは、この主題で必ず参照されるであろうモンテーニュによれば、学識と対になる生得的な能力 facultez naturelles であり、日常的な思考過程自体である*3。つまり、学術論文のような特定の主題に対する言説内容の保証はないが、当該文章の主題に対する自分自身の取扱方法を提示するもの、実のところ、文章自体においてある種の空想的な効力を持つ文章がエッセイであるといえる*4

モンテーニュに与えられた評価のように歴史的事実としてエッセイが新しい文学の形式であったかどうかはともかく、エッセイと呼ばれるような文章の形式自体は古今東西普遍的に認められるといってよい。日本語では「随筆」と呼ばれるもの*5に相当する。随筆は字義のとおり筆の赴くままに書くことをいうが、モンテーニュの語り*6と併せれば、ある種の読者においては、この極限域が筆が赴くままの自動記述 écriture automatique*7との親近性をもつことを想起するであろう。それ Es は話す。エッセイ=随筆とするならば、エッセイは、本性的に何らかの制度的又は共同体的な共時的規則 code によって制御されるようなものではないのである*8

したがって、エッセイにおいては、学術論文ほど個々の記述について形式的な論証を強く求められることはない。とはいえ、エッセイ essay が簡単 easy だという誤認 mistake を誘う神話 myth は解体されねばならない。むしろ事態は正反対であり、学術論文のような手続的な支えが少ない中で、書き手の生身の力量、すなわち、観察眼、審美眼、思考や用語法、概念の精度など衝迫的表出の巧拙が明瞭に把握されうるのである。「一般向けだから」、「新書だから」、「エッセイだから」などといった理由は書き手の罪の意識 mens rea に対する免罪符になることはない*9。エッセイ essay は皿の中のごった煮 messy ではないのである。これは言うまでもなく歴史的文脈の問題であり、濃霧からの脱出の問題であり、ひとつの分野の黎明期における基礎づけ fundamentals に関わる重要な問題 essential problem として提起することができるが、機能的な原罪としてはもちろん、機能的な進化論としても語るには及ばないことである。すなわち、ここでの焦点は、学術論文の通用形式、その実態としては学識者共同体 peer の言語形式を含みうる共通の手続的規則 code を省略し、あるいは透過した結果として、いかなるものが当該文章を速射し、それが読まれるための成立条件となりうるかである。

このことに関連して、工業的な意匠の領域ではいち早く、工学的規則や形式言語の間隙の領野を埋めるべく、利用者の体験のデザイン User eXperience design や人間中心設計 human-centered design、さらには存在論的転回後の人類学といった近代的な意匠形態とは非常に不整合な形態で一連の分野を形成するまでに至っているが、こうした米国流のプラグマティズム pragmatism*10をもってすれば何かを述べ過ぎるには相応しい。というのも、一般向けの文章は、専門家同士の会話のように前提的な行態 Verhalten を鏡像としても推論としても共有し、利用することに及ばないためである。

こうした行態の不在を鑑みると、一般向けの説明の現実の諸効力は出自不明の言葉の二足歩行以外の何ものでもない。それは、火を起こす契機であるとともに火薬を発明する身振りである。このことを毛むくじゃらの動物のごとく「共感 sympathy」と呼ぶことは読者がよく知ることではない。この場合、語られているのは読者自身であって、読者の想像は著しく過剰なのである。言い方を変えれば、「ごく普通の人」にとって学知 ἐπιστήμη が生活を支える半身になることはなく、依然として正しく考えることに通学しながらもサピエンス sapiens と呼ばれることのない状態への熱心な信仰であるということにほかならない。むろん、ここで私は真の意味で more than human を語ろうとしていることを否定しない。

この場合、決して理想的ではない特権的な地位に相応しい数少ない書き手として、日本国内では精神科医の中井久夫をあげることができるだろう。中井のエッセイ*11は、専門的な主題を扱いながらも、時代変化や社会的出来事に対する日常的な洞察を通じて、エッセイの内部で鍵を生成させる力能を有する。これによって、同時代を生きていない読者にとっても、当時の空気感とともに概念の遷移の痕跡 trace を特に示されることが保証される。もっとも、こうした事柄を例証として理解することにより何ものも捉え損ねることは人類による神話の再演であり、愉快な服毒自殺である。ここで中井のエッセイを取りあげる理由は、彼がポスト構造主義に親近性のある位置取りにあったことというよりも、彼が形式的な証明を前面に出すのではなく、出来事、社会実態、概念使用の遷移等を十分に追跡可能な血清として提示していると捉えられることによるためである。

従前、特に自然科学は、高度に発展した科学哲学的な議論にもかかわらず、少なくとも現実の営為としては対象をもつこと、さらにいえば、科学者共同体において検証可能性や反証可能性の手続原理があるとの想像が共有されることによって概ね基礎づけられてきたと言いうるものである。これらの手続原理と追跡可能性とを併置することの許容性を考慮したとき、直ちに読解可能性自体を読解の基礎づけとして据えるというひとつの循環が成立しうる。しかし、この循環は、厳密に言えば論理的な循環ではなく、捻じれた往還の飛躍した差異化の運動である。この点で、「意味の意味」、「批評の批評」などといった有毛と呼ぶには伸びすぎてしまった論理実証主義を現実の人間の土地*12へと帰すことを心得とできるのである。ヤーコブソンの分類*13を借用すれば、こうした文章はメッセージ message への志向性*14を十分に持っているといえよう。

このようにしてみると、エッセイ essay の基礎は、特定の制度や共同体の言語的形式 code に依拠して結論を担保することではなく、読者が自分自身の既製の枠組み code に回収することでもなく、当該文章が要請する読み方 message を当該文章内部において遡及的に生起する条件を当該文章そのものの往還的な運動として、すなわち、敵に対するある種の配慮 thought*15として構成することを避け得ない。こうした技術的解読の内的生成こそ、サピエンスとそうでないものとを分ける境界標であり*16、現時点まで大規模言語モデルが人間とは異なる意味でサピエンスの大地 humus に限りなく接近しながらも一度たりともメッセージ message に触れることのできなかった理由*17なのである。

 

*1:いわゆる論理学は学校教育課程上は情報科学領域の分類であったが、平成30年に国語科目内部に組み込まれるに至っている。すなわち、「急速に情報化が進展する社会において,様々な媒体の中から必要な情報を取り出したり,情報同士の関係を分かりやすく整理したり,発信したい情報を様々な手段で表現したりすることが求められている。一方,中央教育審議会答申において,「教科書の文章を読み解けていないとの調査結果もあるところであり,文章で表された情報を的確に理解し,自分の考えの形成に生かしていけるようにすることは喫緊の課題である。」と指摘されているところである。話や文章に含まれている情報を取り出して整理したり,その関係を捉えたりすることが,話や文章を正確に理解することにつながり,また,自分のもつ情報を整理して,その関係を分かりやすく明確にすることが,話や文章で適切に表現することにつながるため,このような情報の扱い方に関する「知識及び技能」は国語科において育成すべき重要な資質・能力の一つである。今回の改訂では,これらの資質・能力の育成に向け,「情報の扱い方に関する事項」を新設した。この事項は,「情報と情報との関係」,「情報の整理」の二つの内容で構成し,「現代の国語」及び「論理国語」に系統的に示している。」(文部科学省「高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 国語編」(平成30年7月)35頁以下参照)。「論理国語」は「文学国語」と並んで選択科目となったため、文学系研究者らから論理偏重である旨の批判を生じた。

*2:「①随筆。自由な形式で書かれた、思索性をもつ散文。②試論。小論。」(新村出編『広辞苑』(岩波書店、第7版、2018年)329頁)。

*3:ミシェル・エーケム・ド・モンテーニュ(関根秀雄訳)『随想録』(第2巻、2019年7月16日登録、原著1580年)第10章参照。

*4:同上。注意深い読者は直ちに小説等との文学的形式の差異が頭に過るところであろうが、いずれの場合でも文章の内容が事実関係に依拠しているかどうかは問われていないのであり、ここでは地続きである。

*5:たとえば、鴨長明『方丈記』(1212年)など。

*6:「学問と真理とは判断がなくとも我々のうちに宿ることができるが、判断もまた学問や真理がなくともわれわれのうちに宿ることができる。それどころか無知の自覚こそ、判断の最も立派な最も確かな証拠であると思う。わたしは運命よりほかに、わたしの項目をあんばいしてくれる参謀をもたない。夢想が心に浮ぶがままに、わたしはそれらを積み重ねる。」(モンテーニュ・同上)。

*7:アンドレ・ブルドン(巖谷國士訳)『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(岩波書店、1992年、原著1924年)参照。

*8:これとは別に随筆と小論文との識別の問題を生ずるが、いずれにせよ学術共同体や法律共同体などにおけるような厳格な手続原理は不在であるといえる。ここではそれ以上は踏み込まない。

*9:「イソップの寓話の大部分は、沢山の意義と含蓄とを持っている。それらを訓話のたねにしようとする人々は、いかにもその寓話にぴったりの何かの見解を選び出すけれども、それは皮相で幼稚な見解にすぎない場合が多い。もっと生きた・もっと本質的で内面的な・見解が別にあるはずだが、彼らはそこまで徹底できなかった。」(モンテーニュ・同上)。

*10:W. ジェイムズ(桝田啓三郎訳)『プラグマティズム』(岩波書店、1957年、原著1907年)参照。ここではパース的な理解ではなく、建国期の米国の特性を強調しておきたい。このことについて、ルイ・ハーツ(西崎文子訳)『アメリカにおけるリベラルな伝統』(岩波書店、2025年、原著1955年)を参照。

*11:中井久夫『分裂病と人類』(東京大学出版会、1982年)、同『家族の深淵』(みすず書房、1995年)など。

*12:サン=テグジュペリ(堀口大學訳)『人間の土地』(新潮社、1955年、原著1939年)参照。

*13:ロマーン・ヤーコブソン(川本茂雄監訳)『一般言語学』(みすず書房、1973年)11頁参照。

*14:ライプニッツが「モナド」と呼ぶように、ある単純な実体には微分的な何か、能動的な何かが既に折り畳まれており、それが目的因として作用し、実体を変えていく。モナドの特徴は、二重留金構造の第二段階の影を〈神=例外=最終理由〉として捉えつつ、それを「中心点」ではなく「微分的な実体」(襞)として創造も絶滅もない動態と捉えていることにある。ここに目的因を格納し、視点を実体内に置くとともに別の実体(の投影)を再帰的に捉える(予定調和)。この平易な言明は、エドガー・アラン・ポーの小説「黄金虫」の教訓である「狂気的な行動は極めて合理的な行動である」という命題である。

*15:私はこの語をハンナ・アーレント的な響きをもって用いるが、哲学研究者は敵を遠ざけるばかりである。なお、ここでの敵とはシュミット的な意味での敵であって、憎悪を向ける対象としての敵ではない。

*16:要するに「嘘をつくこと」、すなわち、偽装について偽装できるかどうかである。偽装は他者を考慮せざるを得ない。換言すれば、動物は「痕跡」を残さないということである。この点で、ジャック・デリダ(鵜飼哲訳)『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(筑摩書房、2023年、原著2006年)Ⅲ「ではもし動物が応答したら?」も参照されたい。

*17:この点で、今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』(中央公論新社、2023年)は、記号接地問題について、やや不適切な枠組みながらも本質を捉えている。