- 現場の論理と制度の論理のギャップ
- プロジェクト成功の条件:当事者意識と学習力
- 人間観の違いが生むコミュニケーションギャップ
- デザイン思考というアプローチ
- マルチステークホルダーと共創の必然性
- 法制度設計へのデザインの応用
- デザイン思考の本質と公共領域での実践

現場の論理と制度の論理のギャップ
皆さん、こんにちは。今日は公共領域におけるデザイン思考のあり方について話をしようと思う。私は本業は弁護士だが、デザイン分野の大学院で学び、法務の現場にデザインの手法を取り入れる試みをしてきた。法律実務とデザイン実践の両方に関わってきた立場から、今回は「現場」と「制度」のあいだで何が噛み合っていないのか、どのように埋めていけるのかについて考えてみたい。
まず本題に入る前に、今回のテーマの射程を明確にしておこう。「公共領域におけるデザイン思考」と言うと様々な解釈があり得るが、ここでは次のようなアプローチは扱わない。ひとつは、いわゆるリーガルデザインと呼ばれる領域だ。法律文書や制度をデザインし直す、といった文脈の話ではない。またもうひとつは、デザインの知的財産保護の話でもない。意匠権や商標権などデザインそのものを法で保護する仕組みについて語るわけではない。さらにアジャイルガバナンスやマルチステークホルダー・プロセスといった最近注目されるガバナンス論とも視点が異なる。そうした枠組みは一部内容が重なるものの、現場の具体的なデザインの問題とは離れがちだ。ここではそれら既存の議論では語られていないことを扱う。
では何を議論するのか。それは「現場の論理」と「法制度の論理」のすれ違いである。理論と実践の対立という表面的な話ではなく、現場(デザインの現場や実務の場)の考え方と、法制度側の考え方が根本的に噛み合っていない。この溝からさまざまな問題が生じる。片方の論理だけで語ろうとしても、もう一方の論理から必然的に反発や反論が起きてしまうのだ。私は、制度担当者(法律家や行政官)と現場担当者(デザイナーや現場職員)の間で発生する価値観の衝突を翻訳する役割を担うことがある。両者のギャップを埋め、協働できるようにするにはどうすればいいのか――今回の話では、その点を中心に据えて進めていきたい。
プロジェクト成功の条件:当事者意識と学習力
最初に、今日伝えたいことの結論めいたものを述べておこう。デザインを取り入れたプロジェクトを成功させるための必須条件がある。それは、発注者側が圧倒的な当事者意識を持ち、「自分でやる」という心構えで関わること、そして常に学習し続ける姿勢だ。外部に丸投げせず、自ら現場に飛び込み試行錯誤する主体性が求められる。また、プロジェクトチーム全体が学習しながら進める柔軟さも不可欠である。
なぜこの点を強調するのか。ありがちな失敗パターンを二つ挙げれば明らかだろう。第一に「自分には分からないから全部任せる」と専門家やコンサルに丸投げしてしまうケース。これはうまくいかない。内部で何をどう調整すべきか分からず、現場との対話も生まれないからだ。第二に、最初に要件をガチガチに固めて「この通りに作ってくれ」と指示するケース。これも失敗しやすい。なぜならデザインというプロセスは必ず“出戻り”が発生するものだからだ。一度作って終わりではなく、作ってみて初めて問題点が見つかり、仕様や予算の変更を余儀なくされるのがデザインの本質である。ウォーターフォール型で最初から最後まで計画通り進めるのは不可能だ。にもかかわらず仕様を固定してしまえば、状況変化に対応できず頓挫してしまう。
デザインには本質的に反復と変化が伴う。試行錯誤(アブダクション)とも言えるこのプロセスを前提にプロジェクトを組み立てなければ、うまくいかない。したがって、発注者自身がプロジェクトに深くコミットし、現場の状況を理解しながら一緒に進めることが何よりも重要になる。現場任せでも押し付けでもなく、発注者もメンバーの一人として泥臭く関与する。自ら当事者として現場に入っていかなければ、結局は良いアウトプットにたどり着けないのだ。
人間観の違いが生むコミュニケーションギャップ
ここから本題に入ろう。制度側(官僚や法律家など)と現場側(デザイナーや現場の実務者)の間には、基本的な人間観の違いがある。この前提のズレが両者のコミュニケーションギャップの原因だ。制度・法律の世界では、人間とは「人格を備えた合理的な個人」であると捉えられることが多い。憲法13条の趣旨にも沿った考え方で、要するに合理的な平均人的存在だ。適切に文章を読み対話でき、年齢とともに成熟し合理的判断力を身につける存在、というイメージである。人は普遍的にそういうものだ、と制度側の人々は暗黙に考えがちだ。
しかしデザインの思考、現場の思考では人間をそんな風には捉えない。普遍的な人間像というものは存在しないという発想である。むしろ「みんな」とか「社会」などという平均像は幻想だと考える。目の前にいるこの個人、この個人…それぞれ全く異なる存在として扱う。「ここにいない人のことは分からない」という割り切りだ。実際、人間には様々な属性の違いがある。高齢者もいれば、ハイハイする幼児もいる。身体障害のある人、車椅子ユーザー、精神に特性を抱える人もいる。極論すれば、人間とはタンパク質でできた不完全な生物にすぎず、決して全員が文章読解や対話を得意なわけではない。視覚的思考が中心の人も多い。近年「ビジュアルシンキング」に関する書籍も話題になったが、言語よりイメージで物事を捉える人々が実は社会には大勢いる。人口の半分以上が視覚優位とも言われる。
このように、人間の知覚や認知の仕組み自体も千差万別である以上、「人間中心」と一口に言っても「どの人間を中心にするのか」で意味はまるで変わってしまう。行政の文章などで「人間中心」「ユーザーファースト」などと謳われても、それが“平均的な健常成人”を想定しているのか、それとももっと多様な人間像を含むのかで、正反対の設計にもなり得るのだ。この根本の前提の違いこそが、デザインと法・制度の噛み合わなさの最たる要因である。人間観がずれていれば、その後の議論もすべてずれる。
もう少し噛み砕こう。現実の人間には知覚や認知の限界がある。例えば視覚には可視光の波長という物理的な範囲があり、聴覚にも周波数の限界がある。五感すべて物理的な制約を抱えている。人はまず外界を感覚器官で知覚し、その情報から像を結び、認識し、概念化するといった段階を経て世界を理解していると考えられる。ざっくり言えば、(1)感覚すらできない領域、(2)感覚できるが言葉にできない領域、(3)言葉にできる領域、という三層に分けられるだろう。
制度的・法律的な思考は基本的にこのうち「言葉にできる領域」だけを扱っている。論理と言語の世界だ。法制度設計も政治の熟議も、皆が冷静に言語で合理的議論を交わすことを前提に組み立てられている。しかし感覚の次元から見れば、それは人間の知覚全体の中で非常に狭い範囲しかカバーしていない。言葉にできないが感じられるものは数多く存在する。「なんとなく感じる違和感」や「場の空気」「雰囲気」「直感的な好悪」といったものだ。典型例は色である。人が言語で識別できる色の種類は、せいぜい「赤・青・白・黒・緑・黄・紫・ピンク…」と数十色程度だ。しかし人間の眼が識別可能な色の数は数万色にも及ぶ。つまり、人間は言葉にできない微妙な違いも感じ取って生きている。それなのに法律や制度の議論は、この数万分の1ほどの言語化された範囲だけで進められている。言語によるコミュニケーションだけで問題解決しようとすれば、必然的に大量の「抜け落ち」が生じる。これは間違いではないが、見落としているものがあまりに多いということだ。
制度・法の思考は西洋近代的な人間観を基盤にしている。デカルトやカント以来の二元論的な考え方で、主観と客観があり、理性によって物事をコントロールできるというパラダイムだ。しかし現実の多様化・複雑化により、このような従来型の制度設計アプローチは限界に近づいている。変化が早い時代には、言語に頼った合理的議論だけでは現実を捉えきれない。結果として制度側と現場側の認識が噛み合わず、議論が空転する事態も生じている。
デザイン思考というアプローチ
社会の問題が複雑化する中で、従来の科学的・分析的な手法では解決困難な課題が増えている。そうした「厄介な問題(Wicked Problem)」では、問題設定そのものをずらさないと解決策が見出せないとも言われる。目先の要素を最適化するだけではなく、課題自体を再定義して打開策を探るアプローチが必要になる。そこでデザインの発想が注目された、という背景がある。
ではデザイン思考とは何か。端的に言えば、解決策を論理だけで組み立てないやり方だ。従来のビジネスにおけるロジカルシンキングは、例えばピラミッドストラクチャーのように抽象的な戦略目標から始まり、それを段階的に具体化しながら因果関係やインパクト、実現可能性を検討し、最適解を絞り込んでいく。コンサルティングファームが好んで使う演繹的・分析的なアプローチである。一方、デザイン思考では、最初からそのロジカルな段取りは踏まない。最初に大枠のビジョンはあるものの、いきなり具体的な解決策の試作(プロトタイプ)を作ってみるのだ。そして実物に触れたり試したりしながら、そこで得られた知見から抽象的な原則や方向性を見出し、また軌道修正していく。
この仮説→試作→検証→学習というサイクルこそデザイン思考の核である。頭の中の論理だけでなく、実際に作ったもの・行動したことからフィードバックを得て次に活かす。そのため必ずプロセスに反復(出戻り)が生じる。「やってみないと分からないからやる」の精神だ。論理的プランニング自体は一時点では正しく見えても、試作を通じて未知の新情報が得られれば、当初の論理自体を動的に組み替えていく必要がある。状況が変われば前提も変えるのがデザインの流儀だ。
このような手法が効果を発揮するのは、不確実で変化の激しい課題領域である。ゆえに現在、社会の様々な問題解決にデザイン思考が注目されている。もちろん従来の論理的アプローチが誤っているわけではない。ただ、環境の変化についていくにはデザイン的な柔軟さが有効ではないか、ということである。
ここで注意したいのは、昨今「デザイン思考」という言葉だけが一人歩きし、形だけ導入すれば魔法のようにイノベーションが起きると誤解されている節がある点だ。そうではない。大事なのは考え方そのものであって、見よう見まねでPDCAサイクルを回すことではない。常に行きつ戻りつするジグザグのプロセスを取り込み、チーム全員が「今どの段階にいるか」を共有しながら進める。これが要諦である。
さらにデザイン思考では、最初のアクションとして必ず「共感」(エンパシー)が登場する。ユーザーや現場の声に耳を傾け、観察し、共感的に理解することを重視するステップだ。顧客が「これが欲しい」と言ったからといって、その通りのものを作れば問題解決するわけではない。発言の背景にある状況や社会的文脈をくみ取らなければ、本質的な課題は見えてこない。したがってデザイン思考ではインタビューや参与観察などを通じて、表面的な言葉の裏にある本音や真のニーズを探り当てる。
具体的にはユーザーへのインタビューから始め、語られた体験や意見を一旦すべて書き出す。そして付箋(ポストイット)などに書いた断片的な情報を壁一面に貼り出し、グルーピングや並べ替えを行って整理し直す。これはKJ法(カード分類法)のように、バラバラの情報を視覚的に操作しながらパターンを浮かび上がらせる手法だ。文章のままでは見えなかった特徴がこうした作業によって現れてくる。
インタビュー結果を分析していく過程で、生身のユーザー像をチーム内で共有するための成果物も生まれる。それがペルソナである。調査から抽出した典型的なユーザー像を具体的な「架空の人物」として描き出したものだ。名前や年齢、職業、価値観や日常行動まで設定したペルソナをチームで共有すれば、「このサービスは彼(彼女)になら使ってもらえるだろうか?」という視点で議論ができる。ペルソナはチームの共通前提(ベースライン)となり、議論を現実の感覚に引きつけてくれる。法制度であれば、「この制度はこの人にとって使える仕組みになっているか?」という問いを常に突き付けてくれる存在だ。制度がどんなに理論的に美しくても、現実にユーザーが使えなければ意味がない――ペルソナはまさにその点をチームに思い出させてくれる。
こうしたペルソナやプロトタイプなどの中間成果物は、専門の異なるメンバー間で認識を共有するための共通言語となる。これをバウンダリーオブジェクトと呼ぶ。各自が自分の文脈で解釈でき、いちいち言語化せずとも直感的にイメージをすり合わせられる点が強みだ。例えば大まかな建築模型があれば、チーム内の誰もが感覚的に空間を理解でき、議論のベースラインにできる。それと同じことである。
なお、デザイン思考の過程で作られた資料群は、組織内で企画を説明・説得する際の強力な武器にもなる。全てのプロセスが記録として残るため、水掛け論になりかけても「これだけの調査と検討を経て出した結論です」と示すことができるからだ。
マルチステークホルダーと共創の必然性
次にマルチステークホルダーの話に移ろう。デザイン思考では「関係者全員を巻き込んで共創しましょう」というスローガンが語られることがある。しかし共創は目的ではなく結果だ。良いものを真剣に作ろうとすれば、自然と関係者が増えていくのである。
例えば、子ども向けイベントの参加募集ポスターを作るケースを考えてみよう。デザイナーであれば、最初に「そもそも本当にポスターが必要か?」から検討するはずだ。目的達成のために最適な手段は何かを確認する。
それでもポスターを作るとなった場合でも、実は関係者が非常に多いことに気づく。対象が小中学生なら、申し込みには保護者の許可が必要だ。ポスターを子どもに届けるには学校や先生を通さねばならないし、印刷には業者との調整や組織内の予算承認も要る。一つのポスターをちゃんと機能させるには、子ども・保護者・学校・行政・印刷業者…と多くのステークホルダーを巻き込むことになるのだ。
そして最終的には、参加者側と提供側の双方のプロセスを設計することになる(UXデザインそのものだ)。
このように、良いものを作ろうとすれば結果としてマルチステークホルダーになる。逆に最初から「たくさん巻き込もう」と気負う必要はない。質を追求すれば自然にそうなるだけだ。
メディアが多様化する中で、企業経営にもデザインの視点を統合する動きが強まった。そうした流れの中で「デザイン思考」が注目され、ビジネスの世界にも広がっていった。
法制度設計へのデザインの応用
では法律や行政の世界でデザイン思考を活かすにはどうすればよいか。鍵になるのは、「制度も結局ひとつのサービスであり、人が利用する以上は必ず何らかの媒体を通して経験される」という点だ。法律の理念や条文そのものは抽象的だが、それだけでは人々の役に立たない。必ずそれを実装する申請書や窓口対応、手続フローといった具体的なかたちが伴う。制度設計側の人々はとかく最初にガイドラインや組織図の整備に意識が向きがちだ。そうではなく、まずユーザーが直接触れる部分(申請フォームや窓口など)に目を向けてほしい。たとえば行政サービスをデザインすると言っても、いきなり法律を改正したり組織を再編成したりするのではなく、市民が触れる申請書や窓口など具体的な接点から見直すべきなのだ。デザインの積み重ねによって利用者にも提供者にも無理のない仕組みが出来上がり、それを最後にルールとして定める——順序を逆転させて考える必要がある。
このように制度設計にデザインの発想を取り入れるには、複数分野の知見を統合するチームが必要になる。紙のフォームならデザイナーと現場職員、システムならエンジニアと企画担当…と、様々な専門家が協働することになるからだ。当然チームで動く前提になる。チームには共通言語となるデザインの可視化ツール(前述のバウンダリーオブジェクト群)が役に立つ。テキストの報告書だけでは各職種の間でイメージを共有しにくいため、図解・プロトタイプ・ペルソナ等あらゆる非言語コミュニケーション手段を駆使するのだ。開発者には視覚派が多く、法律家には文章一辺倒の人もいる。だからこそ両者をつなぐ「物」が必要なのである。
私も弁護士会内のプロジェクトでデザイン思考を実践した経験がある。そこでは発注者(弁護士会)である私自身が外部の事業者に業務委託を出しつつ、プロジェクトチームに深く入り込み、ともにデザインワークを行った。発注者でありながら受注者チームに加わるという半ば強引な手法だったが、そこまでしてようやくプロジェクトが動き出すのが実情だ。
結局、当事者として現場に入り一緒に汗をかく人間がいないと、どんな仕組みも絵に描いた餅で終わってしまう。幸か不幸か、ここまでやってようやくプロジェクトが動き出す。そして実感するのは、現場の当事者意識を持つことの大切さである。
デザイン思考の本質と公共領域での実践
最後にもう少し大きな視点でデザイン思考の本質を捉えておこう。鍵となるのは歴史や文化と切り離さずに考えるという点だ。デザイン思考は決して目先のアイデア勝負ではない。ユーザーの置かれた社会的・歴史的コンテクストを踏まえて発想することが重要になる。
興味深いエピソードがある。ある有名なノートパソコンのデザインに携わった日本人デザイナーから聞いた話だ。そのノートPCがアメリカ市場で成功した理由について、「アメリカ人に受けるためにはこのデザインでなければならなかった」という。アメリカはフロンティア精神を建国神話にもつ国で、西部開拓時代の馬や銃といったモチーフに特別な思い入れがある。彼らが大切にする黒い馬の鞍(くら)のイメージにそのノートPCのデザインを寄せたところ、ビジネス層に「しっくりくる」製品になったというのだ。実際アメリカでは黒い筐体しか売れなかったが、日本ではカラフルなモデルも売れたという話で、文化の違いが表れていて興味深い。デザインはこのように文化から影響を受け、逆に文化にも影響を与える。法制度においても同じで、国内の歴史や社会背景を踏まえないと有効な仕組みにはならない。
デザイン思考を語る文脈で、エジソンのエピソードが紹介されることがある。エジソンは電球の発明者として知られるが、電球だけでなくそれを活かす電力供給システム全体をも構想し発明した。彼は人々が自分の発明をどのように使うだろうかまで想像を巡らせ、それを実現するために発電から送電まで含めた市場環境ごとデザインしたのである。発明した電球を人々が家庭で使えるようにするには何が必要か? その答えをシステムとして提示したわけだ。この話は「デザイン思考とは何か」を端的に表している。すなわち特定分野の一点突破ではなく、全体を見渡せるジェネラリスト的視点で、人々のリアルな生活に根ざして考えることだ。エジソンはまさにそれを実践した。彼は一科学者ではなくチームを率いて社会実装まで見据えた発明家であり、広範な知識と鋭いビジネス感覚を備えたジェネラリストだったと言える。
繰り返しになるが、大事なのは形だけ真似しないことである。ただ手法をチェックリスト化してもうまくいかない。常に現場のリアルと行き来しながら考え続ける姿勢こそ肝心だ。最初に述べた「自分でやる」という当事者意識もここに関わってくる。現場や利用者と直接対話し、インタラクションできなければデザイン思考は機能しない。逆に言えば、現場と切り離された瞬間にそれは単なる机上のプランニングに堕してしまう。だから仮に全工程を自分一人でこなさないにせよ、「自分でやるくらいのつもり」で深く入り込んで関わることが重要なのだ。
最後に特に公共領域でデザイン思考を実践する際の留意点を一つだけ述べておきたい。公共セクターでは公平性や客観性が強く求められるため、ペルソナのように特定のユーザー像を用いる手法に拒否反応が出る場合がある。「それは一部の事情だけを重視して他を無視するのではないか?」という指摘だ。これに対しては、専門家として全体俯瞰の視点とデザインによる個別具体の視点を同居させる工夫が必要になる。具体的には、デザイン思考で作成したペルソナやシナリオなどの成果物には必ず補足説明を添えることだ。言葉を尽くして「これは全体の中の一例である」ことを示し、決して恣意的に対象を絞っているわけではないと説明する。いわばデザインによる提案を、通常の報告書形式でも添付するイメージである。民間企業ならそこまで気にしなくてもよいかもしれないが、行政ではこうした配慮がないと理解を得られにくい。公平性への姿勢を示すことで、結果的にデザイン思考の成果も受け入れられやすくなるだろう。
以上、公共領域におけるデザイン思考の要点を述べてきた。現場の論理と制度の論理は確かにズレている。しかしデザイン思考というアプローチを用い、人間観の違いを乗り越えながら共通の「物」を介して議論すれば、その溝は必ず埋められる。法や制度のために人間がいるのではなく、人間のために法や制度がある——この原点に立ち返れば、自ずと現場に根ざした発想が生まれてくるはずだ。専門分野に閉じこもらず現場に飛び込み、ユーザーに直接触れ、プロトタイプをどんどん作って試す。そうした知的冒険を厭わない姿勢こそ、これからの官僚や法律実務家にも求められているのではないだろうか。デザイン思考というコンパスを手に、ぜひ一歩を踏み出してほしい。
この記事は、政策研究大学院大学 (GRIPS)「知的財産マネジメントⅡ」(2025年10月18日(土)17:00-18:30)での講演内容について、具体的なプロジェクトの話などを削除したうえで GPT-5 が正確性と複雑度を体感 1/10 くらいに下げて単純化してまとめたものです。言ったけど言ってないよ、私絶対そんなこと言わないよね、語りの調子おかしいよね、みたいなものが大幅に含まれていますが、そういう読み物としてお楽しみください。