
言論の場において、「専門性」と「当事者性」の関係はしばしば複雑で、互いにすれ違い続ける運命にあるかのように見えます。専門性は言葉の「正しさ」や整合性を担保し、当事者性は言葉に「重み」や切実さをもたらします。両者は本来、相互補完的な関係にあるはずですが、実際には思考の前提が異なるために、対話よりも対立を生みやすい構造を持っています。
このため、多くの議論では、発言者が専門性か当事者性のどちらか一方に傾いてしまい、「半分しか語られない」状態に陥りがちです。皮肉なことに、この「半分性」が却って議論を単純化し、都合よく機能してしまう場合さえあります。特に「経験」をめぐる言説では、「当事者だから正しい」「専門家だから正しい」といった二項対立に陥る傾向が強く見られます。しかし、こうした構図は現実の複雑さを捨象し、議論を硬直化させてしまうものです。
専門家の側には、自らの専門領域における知識は、他者も一定程度は理解して当然だという前提が見られます。しかしその一方で、自分が非専門家として他分野に向き合う場面では、同じような理解や配慮を当然視しないことが少なくありません。このような非対称性は、専門領域間の連携を阻害し、知の断絶を助長する原因となっています。
さらに深刻なのは、「専門性」という名のもとに構築される閉鎖性の問題です。日本の学界や業界では、戦前からの文化的背景も影響し、専門領域をサイロ化し、互いに不可侵のものとして扱う傾向が続いてきました。現代では、SNSの発展とともに、商業的なポジショニングが重視され、「選択と集中」の名のもとにこのサイロ化がむしろ強化される局面すらあります。
その結果、自らの専門領域の知見を他分野に優越するものとして振る舞う、いわゆる「タコツボ型専門家」が生まれます。彼らは他者に理解を求めながらも、自らの言説が社会に及ぼす影響やその実行責任には無自覚であることが多いのです。たとえ高度に洗練された理論体系であっても、現実の社会的運用においては他の規範や実践との摩擦に直面し、自己矛盾や機能不全に陥ることもあります。
こうした状況のなかで、私たちは「素人も自らの生活に関しては一種の専門家である」という視点を持つ必要があります。この視点に立てば、専門家の役割とは、単に知識を上から教え込むことではなく、非専門家が自律的に考え、判断し、行動できるように「足場」を提供することにあるといえるでしょう。
いかに専門的な理論であっても、それが特定のコミュニティの中だけでしか通用しないのであれば、外部社会とのあいだに摩擦や誤解が生じるのは避けられません。専門家を名乗る人は、自らの知識が社会の中でどのように機能し、どのような影響を及ぼすのかについて、相応の責任を負うべきです。
「教育によってすべての人に専門知を平等に分配する」という構想は、商業的には成立しうるとしても、社会設計としては非現実的です。過剰な知識の注入は教育期間や社会的コストの膨張を招きかねません。専門家が「自分の知識に従え」と語り始めた時点で、その人はすでに専門家としての本来の職責を逸脱しています。
専門性とは、他者を黙らせるための道具ではなく、むしろ対話と協働の可能性を切り拓くための起点であるべきです。知識の優位性を振りかざすのではなく、他者の理解や実践を支援し、ともに考える姿勢こそが、専門家に求められる倫理です。
また、「専門性への敬意」を口実に、受け身の姿勢をとる側にも問題があります。真に専門性を尊重するとは、自らの知的怠慢を認め、主体的に学び、理解しようとする努力のなかにこそ存在します。そうした過程を通して初めて、「専門性への敬意」は空虚な礼儀ではなく、実質をともなったリスペクトとなるのです。
私がここで批判しているのは、「専門性」そのものではありません。問題なのは、それが自己正当化や社会的責任からの逃避、あるいは対話の回避の道具として使われるときです。閉鎖された専門性ではなく、隣接領域との接続、現実社会への応答、そして当事者の声への配慮をともなった専門性こそが、真に社会的な意義と有効性を持ちうると、私は考えます。