
隠喩と換喩の定式化
意味作用を f(S) とおくと、意味作用 f(S) は音響イメージ S を独立変数とした関数である。以下では『エクリ』「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性」*1における「換喩」と「隠喩」のそれぞれについて、現前する音響イメージ S´ との関係において、音響イメージ S がどのように機能するか明らかにする。
第一に、換喩の意味作用を f(S...S´) とおくと、換喩の意味作用の音響イメージ f(S...S´) S は、類似する音響イメージ群 S...S´ のうちひとつの音響イメージ S による意味内容 s の想起への抵抗 S(-)s に同形である (f(S...S´) S ≅ S(-)s)。ここで抵抗 (-) する意味内容は、S´ が前景化した際の S の意味内容 s である。たとえば、「行 yuki」(S´) という音響イメージから「🚶」の意味内容 (s´) を想起するとき「雪 yuki」(S) の意味内容 (s) である「❄」は想起されない (-)。これが「換喩」であるのは、参照点である S をもって S...S´ の総体を指すからである。音響イメージの連鎖という時間的に一方向の水平的推移とは、いわばドラムロール式で垂直に交わることになる。
第二に、隠喩の意味作用を f(S´/S) とおくと、隠喩の意味作用の音響イメージ f(S´/S) S は、音響イメージ S による意味内容 s の想起への抵抗を突破すること S(+)s と同形である (f(S´/S) S ≅ S(+)s)。S´ が前景化した際に、S は S´ を貫通 (+) して意味内容 s に到達する。たとえば、S´ を「プラチナ」として、S の「雪」と置き換えられているとき、S (yuki) は S´ (platinum) に置き換わりながら S´ を貫通 (+) して意味内容 s としての「❄」の想起に到達する。つまり、「プラチナ」(S´) の音響イメージだけで「❄」(s) の意味内容を想起させることが新たに可能となる。これが「隠喩」であるのは、S が S´ に脈絡なく置き換えられているからであって、S´ が意味内容 s をもつからではない。
ここでの「換喩」と「隠喩」は、通常の用語法とは異なり、専ら音響イメージの次元における操作(これは逆説的に意味内容で伝えるしかないのだが!)を指しているために相当ややこしい。最終的な意味内容 s は、この操作に関係ないと言ってよい。
……え? 「途中式」の f(S)1/s が何かわからないって? この式は、ソシュールの基本的定式を転倒させた S/s をさらに変形した式であり、意味作用 f(S) の問題は、棒 (1) が意味内容 (s) の抵抗 (-) を破り、新たに「主体」を生産することができるかどうかの神学的問題だということである。すなわち、神学における「父-精霊-子」の三位一体のうち「主体」は「子」に相当するのである。
「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題について D'une question préliminaire a tout traitement possible de la psychose」(1958) での定式の変形について
『エクリ』「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題について」*2では、上記の定式が変形されている。
隠喩の式「f(S´/S) S ≅ S(+)s」を別の書き方に直すと「(S/$´)*($´/x)」である。S が S´ を貫通(元の記号は + だが S´ の抹消 $´ に書き方を変更する)して新たな主体の意味内容 s(=x) を生産する。通常の隠喩に先行して音響イメージの次元における特殊な隠喩があり、要するに隠喩は異なる次元で合計2回発生する(二重留金構造)。そして、$´ を式から消去(というか単に原因と結果の関係だけを表記)すると S*(1/s) になる。
この決して現前してこない不可視の S (これを神学的に「父の名」と呼ぶのだが) が意味内容を統御するということである(父性隠喩)。これが「否定神学的システム」とされる理由である。
失語症との関係性について
既に猛烈にややこしいが、ヤーコブソンの失語症に関する整理「に着想を得たことにより」、「隠喩」と「換喩」は、それぞれ相似性と隣接性に対応している。この整理も含めて猛烈にややこしいのは、用語の意味内容だけを捉える限りでは何の区別もつけられないうえ、相互作用がありうるからである。さらに、ヤーコブソンよりも適用条件が暗黙に絞られ、仕切り直されていることも影響している。
「隠喩」に関して、最高強度の相似性(同形性)の再帰的な表現が「=」という抽象的・理念的な論理操作ということになる。こうした相似性を折り畳んだものが「圧縮」であり、その過程が「同一化」であり、そこから展開される意味作用が「隠喩」の効果である。呼び出される効果であり、ロックインの効果であり、幻想的な固定の効果を持っている。この効果に純化した(「換喩」の隣接性に異常がある)場合、あらゆる要素は折り畳まれているので、単語や一語文による脈絡のない発話になりやすい。かっちこっちである。おそらくは隣接性に異常がない(かつ、相似性が優位の)パターンが「神学」や「数学」である。一見すると「詩」や「文学」は「隠喩」の花形のように思えるが、実際のところ、「隠喩」が優位であるとまるで成立しないのである。「隠喩」が文学的な輝きを放つのは「新たな」意味が生じた場合なのであって、これは逆説的に「換喩」に依存せざるを得ない。
これに対して、「換喩」は、フロイトにおける心的要素間の強度の「移動」、すなわち「特定の観念の『近くにある』観念による当該観念の置き換え」を指している。ややこしいのは、ここでソシュールから着想を得て、意味内容と聴覚イメージの区別を導入するからである。「移動」は、この区別に対応して2種類が生じており、聴覚イメージの優位性から、このうち第二種の移動(聴覚イメージ間の強度移動)のみを「換喩」と呼んでいる。第一種の移動(意味内容の強度移動)は、結局、発話の場を寝椅子に固定する限りでは「圧縮=隠喩」でしかありえないのであるが、場が変わり得る場合には第一種の移動が問題になるであろう。この条件設定を想定しておかなければ、混乱は避けられない。
「換喩」に関して「近くにある」というのは「現実的に」近くにあることを指す。それゆえ、最高強度の隣接性というものはなく、あったように見えるとしても発話者の実際の体験に極限まで写実的な接近を試みることを意味する。この試みに純化した(「隠喩」の相似性に異常がある)場合、「=」がぐにゃぐにゃになって成立しない状態(≈)、単語が出てこない状態、主語さえも喪失した状態になり得る。体系性や分類は成立せず、あるいは狭い範囲でしか許容されず、文字通りの意味に捉えやすく、あるいは、うー、えーと、あー、みたいな脈絡「しか」ない発話になりやすい。あれをあれしてそれをそうして的な「おかん言葉」になるというべきか、喃語的になるというべきか。ふにゃふにゃむにゃむにゃおーんである。
相似性に異常がない(かつ、隣接性が優位の)パターンが「詩」や「文学」である。「移動には別にもうひとつ種類があり、〔…〕思想の言語的表現の取換えということに現れている」、「この第二種の移動には〔…〕これこそ夢の外見を決定している空想的な荒唐無稽性の謎を解くための、ことに好都合な手がかりなのである」、「その辺のことは詩人の仕事のやり方によく似ている」、「言葉の洒落の全領域が夢の作業のために動員される」*3とされる。ポスト構造主義は、論理的に注釈できないうえ、寝椅子の縛りがないにせよ書斎や研究室という縛りはあるだろうから、ほぼ第二種の移動しか取り扱えず、本来の換喩の長所である写実性を活かしきれていない。むろん、それでも写実的な効果と同質の効果は生ずるのであるが。そのあたりは批評する対象の問題なのだろうか。
かきくけこ
カネがなくなり
猛獣に(ラジオネーム:翼の生えた虎になった李徴さん)