
現在の SNS 空間では、弁護士アカウントを標的にした「釣りアカウント」が発生しています。彼らは、論理の隙を絶妙に織り交ぜながら、わざと訂正したくなるような言い回しを仕掛け、相手の反応を引き出そうとします。特に弁護士のように論理性や正しさへのこだわりが強い層が、そうした挑発に過剰に反応してしまうのは、単なる職業的性質によるものではありません。それは、彼らの内側にあるナルシシズムが精密に狙い撃たれているからです。
しかし、ここで問題の核心は、釣りアカの巧妙さではなく、むしろ釣られる側――すなわちナルシシズムに反応してしまう人々の心的構造にあります。なぜなら、ナルシシズムとは一度それに汚染されると、自力でそこから抜け出すことが構造的に不可能になるからです。外部からの指摘、内省、自省、学習、どのような手段も「傷つけられた」と受け取られるフィルターを通過し、最終的には自己正当化の材料に変換されてしまいます。
ナルシシズムとは「私が傷つかない世界だけが現実である」という前提で世界を構築しようとする欲望です。したがって、他者の視点や価値観に触れることは、自己世界を脅かす侵入として処理されます。そのとき、「訂正される」、「批判される」、「知らないと指摘される」といった出来事は、事実に対する指摘ではなく、「自分という存在の否定」として受け取られるのです。
その結果、「対話」は成立しなくなります。誤りの指摘や意見の違いが、すべて「私への攻撃」として反転されるからです。どれほど理にかなった忠告であっても、それは「私の虚栄心を損なう発言」として拒絶されます。そして拒絶された情報は「悪意」、「不適切」、「非倫理的」と再定義され、自分の正しさを補強する物語の一部に取り込まれます。
つまり、ナルシシズムとは自己を守るというより、自己の殻を厚くして他者との接触を拒否する構造そのものです。そしてこの殻は、内側からは破ることができません。なぜなら「殻の存在」に気づくという行為そのものが、「自分は完璧ではない」という事実の受け容れを前提とするからです。しかし、ナルシシズムはまさにこの「不完全な自己」の受容を絶対に許さない心性なのです。
たとえば、「私は知らない。だから学ぶ」という謙虚な姿勢は、ナルシシズムにとっては自壊を意味します。したがって、「知らないこと」を認めるふりをしつつ、「だから私はやらない」という態度にすり替え、自分の非を構造的に回避します。このとき、無知はもはや学びの出発点ではなく、「自分が傷つかないための戦略」として利用されます。学びは否定され、批判は人格攻撃に変換され、対話は膠着し、世界は自己肯定のためだけに存在する閉じたループになります。
この構造は、個人の中だけでなく社会的な慣習や制度にも反映されます。たとえば、弁護士業界などで見られるような過剰な礼儀作法の要求も、「他者に配慮する文化」ではなく、「不快を感じる自分を刺激するな」というナルシシズムの慣習化や制度化とみなすことができます。礼儀や形式の意味は失われ、そこにはただ「自分の感情を守るための枠組み」としての形式だけが残るのです。
問題は、こうした心性が自らを正当化する強力な理論を内在化しているという点です。たとえば「心理的安全性」、「多様性への配慮」、「職域の尊重」といった概念が、もともと対話や共存のために設計されたものであるにもかかわらず、ナルシシズムの手にかかればすべて「私を否定するな」、「私の機嫌を損ねるな」、「私の領域に口を出すな」という他者排除の道具として転用されてしまいます。
ここで重要なのは、ナルシシズムの本質が「他者を否定すること」ではなく、「他者を自分の延長としてしか認識できないこと」にあるという点です。「なぜ私ではないのか。あなたも私であるはずだ」という倒錯した共感によって、他者は常に「私の投影」としてしか扱われません。そして、異質性を受け容れることは不快とされ、結果として共感も対話も不可能になるのです。
このようにして、SNS における「釣り」は、単なる挑発ではなく、ナルシシズムという構造に入り込むことで反応を引き出す一種の技術的操作となります。そして釣られる側――つまりナルシシズムに囚われた人間――は、挑発に反応しながらも、その反応自体が「正義」や「訂正」の名のもとに完全に正当化されるため、自らが操作されていることに気づくことがありません。いや、気づくことが「できない」のです。
では、どうすればこの構造から抜け出せるのでしょうか。答えは厳しく、明確です。――自分では抜け出せません。ナルシシズムとは、「その構造に気づいた瞬間に壊れてしまう自己像」を守るために、自動的に気づきを拒絶する自己完結的システムだからです。自己愛に支配された心は、どんな誠実な助言にも「自分を傷つけようとする敵意」を見い出し、外部との通路を遮断します。
つまり、ナルシシズムとは単なる性格の偏りではなく、「認識の自己封鎖」そのものであり、ある種の知的な死と呼んでもよい閉鎖状態なのです。