逡巡録

主に転写録。数秒の躊躇いの中に機械は世界を射影する。

「霊視」に関する転写

「幽霊が見える人」というのは、実際にはそれほど珍しい存在ではありません。彼らが体験するものは、いわゆる幽霊に限らず、UFO や不可解な電波、あるいは神秘的な啓示のようなかたちを取ることもあります。このような知覚は、歴史的に見ると、神学や刑事法学、精神医学といった複数の領域が関わる問題として扱われてきました。たとえば中世の魔女裁判では、「見える」という主張が宗教的な真理、法的な責任、そして精神の正常性の境界をめぐる激しい議論の引き金となっていました。これは、たとえば「見える」という現象が一個人の内的な問題にとどまらず、社会全体がそれにどう対応すべきかという問いを内包していたからです。

しかしながら、幽霊が見えるという「事実」そのものは、ただ「見えるか/見えないか」という単純な経験の有無に過ぎません。それが社会的に役に立つかどうか、あるいは他人から羨望されるような特性であるかどうかといった基準は、本来まったく関係がありません。本人の意思や好みにかかわらず、「見える人」にはただ見えてしまう。それは彼らにとって避けがたく、否定しようのない現実です。

そうした人々のなかには、自分が見ていることを黙ってやり過ごし、周囲に合わせて日常を送っている人もいれば、社交的にふるまえる人もいます。一方で、それによって気分が落ち込む人や、不安定になる人もいます。しかし、どのようなふるまいをとるにせよ、決定的な一点として、「見える人」と「見えない人」の間には、どうしても超えがたい感覚の断絶があります。これが、しばしば深い孤独の感覚をもたらします。

この構造は、「天才 Gifted」とされる人々が直面する状況と非常に似ています。一般に「天才」は、社会や他人から、「役に立つかどうか」、「優秀であるか」、「羨ましい存在か」といった基準で語られがちです。しかし実際には、独自の感覚や論理、世界認識の仕方をもつという事実そのものは、社会的価値や優劣といった評価とは無関係です。それは「幽霊が見えること」と同じように、本人にとってはただそうであるというだけのことなのです。

ここで強調すべきなのは、孤独というものは、単に周囲に人がいるかどうか、フォロワーが多いか、あるいは社交的であるかどうかといった指標では測れないという点です。また、才能を伸ばすか伸ばさないかという教育的な問題でもありませんし、「高尚な精神性」や「特別な能力」として美化されるべきものでもありません。むしろ、ありふれていながら社会と接続しにくい ―― まさに「幽霊が見えること」と同様に ―― 一つの生き方、在り方の問題として理解すべきなのです。

天才とされる人の多くは、独特の発想や感覚、語彙、行動様式をもっています。しかし、そうした特性は、周囲の人々にとってしばしば理解しがたいものであり、通常の言説や常識に照らして把握されようとします。社会はそれらを鏡のように反射的に扱い、「よくあるもの」として同化しようとしますが、その試みは往々にして失敗します。そして失敗したとき、その人に向けて一方的に説明責任が課され、「なぜそうなのか」、「どういう意味なのか」と問い詰められることになります。説明が不十分とされれば、「衒学的だ」、「冗長だ」、「意味不明だ」といった否定的な評価が下されます。その結果、本人は「語っても伝わらない」という諦念に至り、ますます沈黙し、孤独を深めるのです。

もしこの社会に本当に「天才」と呼ばれるような人が存在するとすれば、彼らは幼いころからそうした説明責任を過剰に負わされ続けてきたはずです。そして、やがては「どうせ理解されないのだから」と思い至り、自ら進んで語ることをやめてしまうようになります。さらにやっかいなのは、そうした人々が不正確な理解に基づいて「擁護」されたり、「特別扱い」されたりすることで、むしろ一層疎外感を深める場合があるという点です。つまり、誤ったかたちで「味方」を名乗られることすら、彼らにとっては新たな苦痛となり得るのです。

もっとも、こうした感覚の違いが絶対的に理解不可能であるわけではありません。たとえば、子どもや自閉スペクトラム症の人、あるいは精神疾患を抱える人の心的世界を、大人が言語的に説明しようとすることはたしかに難易度の高い試みです。彼らの体験はしばしば前言語的であり、それを言葉に変換するには大きな困難を伴います。しかし、それでもなお、理解の試みを通じて相互理解に至ることは可能です。その意味で、「子どもは、みな天才である」といわれることがあるのは、彼らが未だ社会の言語体系に従属しておらず、独自の認識を生きているという点において、ある種の真理を含んでいます。

問題は、そうした違いに直面したとき、私たちの多くが無意識のうちに自己防衛的な態度を取ってしまうということです。自分が理解できないことに対して、「あれはインチキだ」、「宗教っぽい」、「中身がない」などと切り捨てたくなるのです。なぜなら、「自分は賢いのだから、理解できないはずがない」と無自覚に信じているからです。そのため、理解不能な他者はまるで「わざと難解な言葉で煙に巻いている」とみなされ、結果として排除や嘲笑の対象になってしまいます。

このように考えていくと、「天才」とは決して崇高で特権的な存在ではなく、「幽霊が見える人」と同様に、ある独自の感覚と知覚のかたちを生きている存在だといえます。そのような存在は、社会的な意味づけや評価を超えて、ただそうであるという一点において理解されるべきです。そしてその理解が可能であるためには、社会の側が「わからなさ」を前提にし、それでもなお向き合おうとする態度をもつことが不可欠なのです。