
近年、SNS や言論空間において「ケア」という言葉が頻繁に使われるようになってきました。しかし、その多くは本来の「ケア」とは異なる意味で用いられているように思われます。具体的には、「ケア」が普遍的な倫理の新たな様式や、他者に対する同情を求める規範的なロジックとして機能し、他人の痛みを制度的・抽象的に処理可能なものとして安易に扱う傾向が見受けられます。
しかし、本来の「ケア」とは、義務として課されるものでも、抽象的な規範として一般化されるものでもありません。むしろ、制度の枠組みからこぼれ落ちるような関係性のなかで立ち上がってくる、応答的で文脈に依存した実践であるといえます。したがって、ケアを倫理的義務や社会制度に組み込もうとする動きは、むしろ「ケア」という名を借りた非ケア的な実践になってしまう可能性があります。
このような意味の変質は、「ジブンゴト化」や「利他」、「共感」、「道徳」、「責任」といった倫理的な語彙にも共通して見られます。これらの語は本来、正誤や善悪といった明快な基準によって判断されるものではなく、個別の文脈や関係性の中で立ち現れるものです。しかし、これらの語が肯定や否定の立場にかかわらず、二項対立的に使われたり、逆手に取られて相手を攻撃する手段として用いられたりすると、本来的に備わっている非規範的な倫理性が損なわれてしまいます。こうした概念は、もともと「正しい/間違っている」や「善い/悪い」といった評価軸に還元できない次元に属していますので、意味を反転させて用いること自体が的外れになってしまうのです。
とはいえ、倫理的な経験がまったく評価されるべきではないということではありません。むしろ、「Good/Bad」といった柔らかく相対的な価値判断の次元において、たとえば「その対応は思いやりに欠けていた」とか「もう少し気づかいがほしかった」といったように、関係性に根ざした非絶対的な道徳的応答として扱うべきだと考えます。なぜなら、この Good/Bad の次元が抑圧されてしまうと、倫理的な要求はより強固で絶対的な Right/Wrong という規範的判断のかたちで表出せざるを得なくなり、結果として「正しさの過剰」が他者を縛る新たな道徳的強制となってしまうからです。
したがって、倫理的な問題は、可能な限り法制度的な規範の次元に移行させるのではなく、Good/Bad という日常的で柔軟な倫理的応答の次元に留めておくことが、より健全な社会的関係を維持するうえで不可欠であると考えます。
このような問題構造は、たとえば「合理的配慮 reasonable accommodation」という制度用語の運用にも見て取ることができます。「合理的配慮」を、物理的環境の調整請求権としてのみ理解し、ある種の心情的な要素、すなわち「ケア」の側面を意図的に排除するような解釈は、確かに制度的には明確かもしれません。しかし、それでは当事者の経験的な苦痛や、関係性における配慮のきっかけを切り捨ててしまうことになります。このように法的な形式に過度に依存することは、行政や司法が構造的な問題に対する責任を回避し、個々の利用者にその責任を転嫁するための口実としても機能してしまうでしょう。
その延長線上には、障害者差別解消法におけるアクセシビリティの理論を拡張し、HCD(人間中心設計)義務や UX 保持義務といった新たな法的義務を導入しようとする動きも想定されます。しかし、これもまた、制度的な「正しさ」による包摂が、かえって関係性における倫理を硬直化させる危険性をはらんでいます。
こうした倫理と制度の乖離のなかで、理論家たちはしばしば「思いやり」や「当事者性」に対して無力です。これは、彼らが意図的にそうした要素を切り捨てているというより、そもそも既存の理論的枠組みの中に、それらを扱う手段が備わっていないこと、あるいはその必要性に気づいていないという構造的な問題に起因しています。これは、フィクション作品などでしばしば戯画的に描かれる「冷徹な論理人間」の原型であり、ハンナ・アーレントのいう「思考停止 thoughtlessness」の問題と通じるものがあります。
アーレントは、あらかじめ与えられた体系や外部からの思考枠組みに依存することを「思考 thought」ではなく「思考停止 thoughtlessness」とみなし、これが全体主義における「悪の凡庸さ banality of evil」の根本にあると指摘しました。つまり、倫理的な思考とは、事前に整えられた体系に従うことではなく、むしろ他者との関係性の中で立ち上がってくるものであり、それは「思いやり」と呼ぶほうが適切かもしれません。
このような立場から考えると、「ケアの倫理」の源流とされるキャロル・ギリガンの著書『In a Different Voice』は、「もうひとつの声」と訳すよりも、「ひとつの異なる発話のなかで」と訳したほうが適切だと感じられます。不定冠詞 “a” と “voice” のもつ異質さや孤独な響きが、規範的な普遍性ではなく、関係性のなかで立ち上がる個別的な応答としての倫理を示しているからです。
最終的に、「ケア」とは、他者の痛みを完全に理解することができないという限界の認識から始まるべきものだと考えます。「私はあなたではなく、あなたも私ではない」。その隔たりを前提としつつ、それでもなお関係を結ぼうとする態度 ―― すなわち、「痛みをジブンゴトとして引き受ける」ことによって、初めて相手に「歩み寄る」可能性が生まれるのです。それは痛みを共有するということではなく、自分自身の傷と向き合うことを通じて他者に応答しようとする態度であり、ここにこそ、本来的な意味での「ケア」が存在するといえるのではないでしょうか。