
私たちは日常的に「客観的である」、「客観的に見れば」といった言い回しをよく使います。しかし、実際のところ「客観性」とは何を意味するのでしょうか。
この言葉は、観察対象が物理的に実在すること、誰が見ても同じように観察・再現できること、あるいは反証可能であることなど、さまざまな意味で用いられています。さらには、論理的な推論手続が集団の間で共有されていること、あるいは一種の「真理の実感」があることまで、意味内容が広がりえます。こうした曖昧さのなかで、「客観性」という語が一つの安定した概念として扱われること自体が危ういともいえます。
この混乱は、近代以降の「主観」と「客観」という図式的な対立構造に基づく思考の枠組みに根差しています。とりわけ、古典的な哲学や科学理論では、「主観的なもの」すなわち人間の内面的な意思や意図が、「客観的なもの」に対して作用を及ぼし、外界を認識したり操作したりするという考え方が支配的でした。たとえば、絵を描くことは頭の中のイメージをそのまま表現する行為である、という考え方はこうした構造を反映しています。しかし、実際の制作過程は身体感覚、環境、無意識的な判断が複雑に絡み合っており、この単純な構図は現実を捉えていません。
にもかかわらず、「客観的な行為こそが人間の意思を表している」とする見方はいまだに根強く存在しています。けれども、この考え方を真面目に適用してしまうと、極端な事例、たとえば刑事事件では、すべての死亡結果は特定の誰かによる殺人であるとみなしたり、逆に、すべてが偶然の死亡事故だと決めつけるような、都合のよい解釈がまかり通ってしまいます。そうした議論の根底には、行為の意味が常に外から観察できるかのような幻想があります。
現実には、行為や行動の表面だけを見ても、その意図や動機は必ずしも明らかではありません。たとえば、「試験勉強をしようと思って部屋を片づけ始めた」という行動があるとします。この行動は一見すると合理的に見えますが、実際には「試験勉強そのものを回避したい」という欲求のあらわれかもしれません。つまり、その行動は別の行動を先送りするための「もっともらしい言い訳」として機能しているのです。このように、人間の行動は一義的には理解できず、多層的な意味や目的を含んでいることがありえます。
さらにいえば、客観的であるとみなされる行動でさえ、必ずしも真実を表しているとは限りません。それは演技であったり、本人が自分自身を誤解していたり、あるいは過去の出来事に由来する意味のない強迫的な反復行動であったりもするからです。私たちが自分の身体や行動を完全にコントロールできるというのは、現実には達成しえない「理想」です。したがって、「客観的であること」は――真にそうであるという実感を仮に〈現実的なもの〉と呼んでおきますが――それ自体が〈現実的なもの〉と大きくずれている可能性を払拭し得ないのです。
それでは、〈現実的なもの〉とは何でしょうか。それは「手で触れられる」といった単純な意味での実在よりもさらに単純な実在の核です。むしろ、私たちが経験したはずの出来事を、それとして認めることができない、というかたちで現れる核心的な困難を指します。つまり〈現実的なもの〉の「不可能性」とは、知覚の限界というよりも、それを自らの枠組みに受け容れることの困難さを意味するのです。
このような問題は、認識のプロセスが単純な直線的進歩ではないことを示しています。つまり、「抽象的な主観性」から「具象的な客観性」へと移行する道のりは、飛躍や後戻りを含む複雑な弁証法的過程なのです。たとえば、ある社会的な出来事をきっかけに、自分のこれまでの考え方が根本から揺らぎ、それに対応するかたちで過去の経験の意味づけが変わる、ということがしばしばあります。このような認識の再編は、常に仮説的であり、完全な理解には至らず、どこかに「余剰」や「失敗」がつきまといます。
ここで「体系性」――すなわち世界を一貫した理論で説明しようとする営み――の限界が明らかになります。体系は、その抽象性ゆえに〈現実的なもの〉とどうしても距離が開いてしまいます。そのため、現実と理論の齟齬を見えなくする「ごまかし」が入らない限り、完結した理論体系は成立しません。そして、この破綻が日常生活において無視できない支障をきたすと、「理屈では正しいのに、なぜかうまくいかない」といった神経症的な症状として顕在化します。
さらに、こうした伝統的な主客構造がもはや通用しなくなっている状況もあります。たとえば、近年の高解像度のバーチャル技術は、私たちの「見る」という行為の信頼性を根底から揺さぶっています。技術的には本物と偽物の区別がつけられるとしても、日常的にはわざわざコストをかけて確認しないことが多いため、結果的に「何が本物か」が不確かになっています。実際、この文章も「転写」であり、私が書いたと言い切れるとは限りません。これは、「客観性」の拡張であると同時に、その根拠の不安定化でもあります。
このような状況においては、〈物自体〉も単なる操作可能な対象ではなく、むしろ私たちが振り回されるような存在として現れます。カントのような厳密な認識論的態度はこの現実には耐えられずに壊れてしまうでしょう。しかし、逆説的に言えば、そうした手に負えない〈対象〉こそが、主体というものの真のありかを暴き出すのかもしれません。
この観点から見ると、たとえばシュルレアリスムに対する一般的な理解――夢のような幻想世界を描くという誤解――も問い直されるべきです。実際には、シュルレアリスムは夢と現実、意識と無意識が混然一体となる空間こそが、むしろ「より客観的」であると主張しているのです。私たちが「現実」と呼んでいるものは、すでに幻想と混ざり合っており、その混成のなかでこそ真の認識が可能になる――それがこの運動の根本的な洞察でした。
このように見てくると、「客観性」とはけっして一枚岩の概念ではなく、むしろ常に問い直され、更新されるべき仮説的な構えであることがわかります。そして、〈現実的なもの〉との齟齬や破綻、あるいは偶然性や錯綜のなかにこそ、新たな認識の可能性が開かれているのです。