逡巡録

主に転写録。数秒の躊躇いの中に機械は世界を射影する。

「生命」に関する転写

毎日をなんとなく過ごしていると、ふとした拍子に、自分がなぜ生きているのか、そもそも生きるとは何なのか、という問いが顔を出すことがあります。しかしその営みを根本から見つめ直すと、そこには言葉にしがたい違和感が立ち上がってきます。生きるとは、誕生と死という始点と終点を持つ一本の線をたどることです。しかし、その線を私たちは望んで引いたわけではありません。この避けようのない、自分の意思とは関係なく人生の始まりと終わりがすでに決まっているという事実に直面したとき、私たちは人生という構造そのものに根源的な無意味さを見出さずにはいられません。

この無意味さを直視するのは、誰にとっても苦痛です。だからこそ、多くの人は「幸福」や「目的」といった言葉に逃げ込み、自分を安心させる物語をつくろうとします。しかしその物語の多くは、死に対する恐怖や存在の空白から目を逸らすために機能する、一種の精神的な避難所にすぎません。それがどれだけ洗練され、装飾されていても、意味のあるふりをしているだけなのです。

この意味のなさへの根源的な拒絶反応は、「キモい」という感覚にも象徴的にあらわれています。私たちは命の生々しさそのもの、つまり濡れたもの、内臓、血液、生のにおいのするものに対して、本能的な拒絶反応を示すことがあります。それは、生と死の境界に触れてしまったときの根源的な動揺です。生命のリアルは、私たちにとって必ずしも「美しい」ものではありません。むしろ、あまりに直接的すぎて、目を背けたくなるようなものです。だからこそ、そこに触れざるを得ない状況になったとき、私たちは「気持ち悪い」と言うのです。

生きることが生殖と死の回路に組み込まれているという構造は生物学的に明白です。私たちは、死があるから生きられるし、生きている限り死に向かって進んでいきます。しかし、この構造の中に自分を置くことは心理的には容易ではありません。だからこそ、「人生には意味がある」、「自分には使命がある」といった物語が、多くの人にとって必要不可欠な支えとして機能しているのです。

「人生を変えよう」、「もっと善く生きよう」というスローガンがあふれる現代において、それらの言葉の多くは、私たちが直視すべきものから目を逸らすための消耗品になっています。たしかに、人は変われます。しかしそれは、無意味さを受け容れたうえで、なお生きようとする決意によってのみ可能です。そこには痛みや絶望、そしておそらく滑稽さがついてくるでしょう。それでもなお、私たちは選ぶことを求められます。それこそが「変わる」ということの本質です。

では、意味のない人生を私たちはどう生きればよいのでしょうか。答えは率直です。「意味はない」。そのことを認めたうえで、なお生きることです。意味がないということは、誰にも自分の生き方を規定されないということです。それは、絶望を一度くぐり抜けたあとの、ある種の清々しさをともなった自由なのです。

このような自由の意味が、より切実な形で問われるのは、人生の時間が限られているときかもしれません。人はそこに自ずと、他でもない自分自身に対する「誠実さ」を強く求めるようになります。時間が限られているという事実は、それまで曖昧にごまかしてきた問いに対して、真正面から向き合う契機となるからです。何をしていても、していなくても、その時間をどう過ごすかという一点に、自分の生き方の全体が凝縮される感覚があるのです。それが他人にとって理解不能な過ごし方だったとしても、自分にとって納得できるものであれば、それで十分です。ここでいう「誠実さ」とは、意味のなさを受け容れたうえで、なお自分自身の選択に対して責任を引き受けようとする態度、すなわち、自分に対して嘘をつかないという姿勢を指しているのです。

しばしば、「正常に戻りたい」という言葉を耳にします。しかし、その「正常」はいったい誰が決めたのでしょうか。社会が作った「標準」や「普通」、さらには「人間性」を取り戻そうとするたびに、私たちは少しずつ自分自身を見失っていきます。むしろ、真に「正直な」生とは、不安定であることを恐れず、他人の期待に応えることよりも、自分にとって手応えのある方向へ踏み出すことではないでしょうか。たとえ足元がふらついていても、自分の感覚で立ち続けること。それが自分自身にとって最も確かな「現在地」であるはずです。

多くの人は、自分の人生を「物語」として理解しようとします。「起承転結」や「努力と報酬」といった構造に当てはめることで、意味を持たせようとするのです。しかし、実際の人生はそんなにきれいに整ってはくれません。話は破綻し、筋は通らず、納得できる終わり方なんて存在しないことも多いかもしれません。それでも、生きることは続いていきます。だからこそ、「整っていること」ではなく「それでも続けてしまうこと」のほうが、ずっと大切なのです。

死もまた、同じです。死は私たち全員にとって唯一確実な出来事であり、未体験の出来事ですが、死そのものが生に意味を与えてくれるわけではありません。むしろ、死を否定せず、それと共にあるという構えのなかにこそ、かろうじて生を引き受ける力が生まれます。死は終わりであると同時に、生を始めるための条件でもあります。それに向き合うこと、それが、私たちが避けてはならない課題です。

だからこそ、意味がなくてかまわないのです。私たちは、意味がなくても、なお生きることができます。むしろ、意味がないからこそ、自分の手で選び、自分の言葉で考え、自分の歩幅で歩くことができるのです。たとえ誰にも理解されなくても、それでも笑って、自分のやり方で生きていく。その愚かさのなかにこそ、自らの無意味さを引き受けながらも、それでもなお生きようとする意志の痕跡が静かに立ち上がってきます。それは、一般的な規範や理想とは異なる、ひとりの人間がたしかに生きていたという、いわば、かすかな「気配」としてそこに残るのです。